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愛扇風機  2004/07/09
愛車  2004/07/09
ドレミノテレビ〜3  2004/05/20
ドレミノテレビ〜2  2004/05/20
ドレミノテレビ〜1  2004/05/20
ズバナ  2004/05/09
ヘビイチゴ  2004/05/09
妙なる五月  2004/05/05
先生  2004/04/24
ほんげんぎょう  2004/01/12


愛扇風機
愛扇風機〜とは言わないでしょうが(^^ゞ私が40年以上毎年必ず夏に使っている骨董品のような扇風機があります。それが三菱の扇風機です。昔、叔父が勤めていた三菱の製品を、と購入したのでしょう。

昔の我が家は店もしていましたし8人家族でしたから、時代と共に新しい型の扇風機が何台か増えていきました。私が独り暮しを始める30数年前でも1台目の三菱扇風機はもう型が古くなっていました。家には何台か扇風機がありましたので、私はこの1台目の三菱扇風機をもらって、それからは引っ越すときも必ず一緒に連れて、お嫁入りも一緒にしました(^^ゞ 現在は写真の通り、台所で私に涼しいやさしい風を送ってくれています。

言いたいのは、この三菱扇風機、ただの一度も故障したことがないのです。私が何才のときに我が家にきたのかははっきり覚えていませんが、テレビが昭和37〜8年ですから扇風機はその4〜5年前になるのでしょうか?

数年前に叔父と会ったとき、私が今も使っていると言うと、嬉しそうな誇らしそうな表情になって「そうかぁ、、、うちにはもうないからなぁ、見たいなぁ」と言っていました。その叔父は今は天国ですが、40数年前の三菱扇風機は叔父たちの頑固なほどの真面目さを受け継ぎ、故障もせず油を注したことさえなく今もしっかり現役です。
Date: 2004/07/09


愛車
花の向こうにぼうっと見える車は私の愛車となった三菱のパジェロ・ミニです。この前、修理から帰ってきました。いえいえ、欠陥車ではありません(^^; 30年間全くのペーパードライバーだった私がこの5月から練習を始めてぼちぼち乗るために買ったばかりの車で、練習一日目にぶつけて、またぶつけるかもと、へこんだまま1ヶ月半ほど走っていたのです(^^ゞ

パジェロ・ミニにしたのはムスコタの希望で決めたのですが、そのときはまだ三菱自動車の問題はニュースなどでも聞いていませんでした。うちの団地は自動車とは別なのでしょうが、三菱関係のお仕事の方が大変多いと聞きます。そして三菱といえば、私の叔父二人が福岡で定年まで勤めた真面目な根っからの三菱マン(っていうのかわからないけど(^^ゞ)でしたから、なんとなく名前には親しみを持っていました。
Date: 2004/07/09


ドレミノテレビ〜3
それにしても子供番組でUAに童謡を歌ってもらおうと誰が言い出したのでしょう?〜なんて考えてしまいます(^^ゞ それからともともの山口ともさんも!

ともともを初めて見たとき(この人なんなんだろう?昔のトニー谷みたいな人?)と思いましたが・・(^^; 『ドレミノテレビ』HPでは“謎のパーカッショニスト”と紹介してありますが、見れば見るほど不思議な?でもやさしい風のような人です。ともともが奏でる自然の音はココロが洗われるようで心地よく、とっても幸せな気持ちになります。

スペシャル『ううあとうたおう』の中で、ともともが「今日はううあの歌がたっくさん聴けて、ともともはとっても幸せでした」と言うと、ううあが 「ううあもたっくさん歌が歌えて幸せだった。やっぱり、ううあは歌が大好きさ」と言います。

『ドレミノテレビ』に出会った子供たちは童謡を素直にいい歌だなぁ、音楽は楽しいなぁと感じると思います。私も「フルフルもううあとともともの音楽が聴けてとっても幸せです」と言いたいです。そして『ドレミノテレビ』に関わるみなさんに・・ありがとう♪(*^^*)v

*NHK教育テレビ『ドレミノテレビ』  http://www.nhk.or.jp/doremi/index2.html
*UA  http://www.aloha.co.jp/NEO_ALOHA/html/ARTIST/UA.htm
*山口とも  http://www.terra.dti.ne.jp/~tomoyama/main.html
Date: 2004/05/20


ドレミノテレビ〜2
『ドレミノテレビ』でううあ(UA)の歌う童謡を聴いたのは「マーチングマーチ」が初めてでした。そのときは何も知らずに、たまたまテレビをつけたら、UAがカラフルなだちょうのようなコスチュームで歌っていて、それはなんと「マーチングマーチ」でした♪ わぁ〜〜♪この番組はナニ!?この「マーチングマーチ」はナニ!?UAが歌のお姉さんううあ!?と興奮気味の私でした(^^ゞ

「もりのくまさん」も今大好きですが、以前はなんとなく知っていただけ。ううあの歌で、おじょうさんの落し物が“しろいかいがらの ちいさなイヤリング♪”だったと初めて知りました(^^ゞ “あら、くまさん ありがとう おれいにうたいましょう♪”と、かわいいおじょうさんとやさしいくまさんのやりとりが素敵です♪ 

そんな感じでどの歌も詞がいきいきみえてくるのです(^^) こんな詞だったのねー、こんなに素敵な歌だったのねーと嬉しい再発見、新発見することしきりです♪
Date: 2004/05/20


ドレミノテレビ〜1
NHK教育テレビの子供番組『ドレミノテレビ』に今、ハマッテマス♪

今放送されているのは去年の再放送のようです。『ドレミノテレビ』のこと、去年は全く知りませんでした。あぶないとこでした・・今年『ドレミノテレビ』を知ってホントにラッキーでした♪ 

今年3月には、『ドレミノテレビ』でううあ(UA)が歌った童謡20曲をまとめたCD「うたううあ」が出ています。それはこの前生協カタログで見て、ああ欲しいなぁと思っていたのですが、丁度といいますか、先日(5/4・5/16再)45分のドレミノテレビ・スペシャル『ううあとうたおう』が放送されました。もちろんビデオに録って私の永久保存版になりました♪(*^^*)
Date: 2004/05/20


ズバナ
子供の頃、ズバナの若い芽の中のやわらかな真っ白い綿のようなものを食べていました。れんげ草が咲く頃でしたねぇ。味という味はしなくておいしいものでもないのですが、れんげ畑の中でれんげ草を摘んで首飾りや花かんむりを作って、畦道のズバナを摘んで食べるというのが、春の遊びでしたもんね(^^ゞ 写真のズバナはもちろん花穂に成長したものでしょうから食べられません。
Date: 2004/05/09


ヘビイチゴ
散歩道でヘビイチゴを見ました。食べてもいいのだそうですね。でも子供の頃、「ヘビイチゴは食べたらいかん」と言われていたので、やっぱり今でも採って食べる気はしません(^^; 
Date: 2004/05/09


妙なる五月
4月だなぁ・・と思うと、私はサイモンとガーファンクルの『4月になれば彼女は』が鼻歌で、April come she will〜♪と出てきます(^^ゞ

そして、ああ、5月だなぁ・・と新緑の山などを見てしみじみとした気持ちになると、なぜか中学生のときに覚えたハイネの詩が浮かんできます(^^ゞ

『蕾開く 妙なる五月 心にも 恋ほころびぬ  鳥謳う 妙なる五月 よき人に 思い語りぬ』

単純といえば単純?ただ、4月になれば〜、妙なる五月〜とはっきり月が入ってるからかなぁ?(^^;

そういえば37〜8年前のある日、高校生の兄が中学生の私に「おい、お前、ハイネ詩集ば持っとたやろ?貸せ!」と言って、本棚からさっと取り出して持って行きました。あれは何だったんだろう・・?(^^;
Date: 2004/05/05


先生
この前の土曜の朝なんとなくつけたままにしていたテレビから、“ヤンキー先生”とか“余市高校”とかいう言葉が聞こえて、思わず画面を見ると、あのドラマ『ヤンキー母校に帰る』のモデルの北星学園余市高校の義家弘介先生が映っていました。番組はNHKの『土曜インタビュー』という番組でした。ドラマの『ヤンキー母校に帰る』は息子のムスコタはいつも見ていましたが、私は見たことがなかったので、あら、本物だわ♪と手を休めてテレビに見入りました(^^ゞ 画面の義家先生は33才の若くカッコいい青年でした(*^^*) その義家先生のお話はとてもわかりやすく引き付けられました。インタビューアーは三宅民夫アナウンサーで、じっくりゆっくりたっぷり聞かせるインタビューでした。『ヤンキー母校に生きる』という本を書いておられるようなので本を読むのが一番だと思いますが、『土曜インタビュー』の中でも印象に残った言葉がいくつもあり、ちょっとまとめてみました。

*荒れていた頃の自分を顧みて・・「結局は孤独だった。あったかさとか愛情とか甘えるとか知らなかった。心を閉ざして破壊すれば救われると思っていた。でも知らず知らずのうちに助けてと叫んでいたのかもしれない。止まらない、止められない自分が怖かった。このまま行ったら絶対破滅すると思っていた。だから誰かに助けてほしかった」

*担任の安達先生に出会って・・「すぐ怒り、すぐ泣き、ほめてくれ、絶対にあきらめない人だった。この学校は貧しい、先生と生徒が一緒に守っていかないとこの学校はやっていけないと言われたとき、ああ、俺もこの学校の一員なんだと思った。そして事故で入院したとき、北海道から来てくれて『あなたは私の夢だから死なないで』と泣かれた。その一言で自分は生きたい、そして安達先生の後を追って生きていこう、母校の先生になろうと思った」

*先生になって一貫して思っていること・・「一緒に行くぞ」

*子供にとって大切なもの・・「熱のある場所。それはひとりではつくれない。みんながひとつになって熱のある場所を共につくっていくことが大切。孤独な子供は熱を求め、熱に似た場所(欲望)に逃げている」

*社会に希望があるかと悩んだとき・・「自分の子供が生まれたとき、戸惑いや不安は消えてしまった。生まれたばかりの子供を見たとき、これが希望だと思った。人は希望として生まれるのだ、子供たちこそが希望なのだと思った。そしていろんなプロセスを経て人と関わって人間になっていく」

*いま思うこと・・「教育の方法論を探る前に、怒ってやらなければならない、抱きしめてやらなければならない」

ヤンキー先生を見て、私に関わってもらったたくさんの先生方が浮かんできました。なにせ高校を卒業してからでも34年経っているので、もう高い空の上に他界されている先生も何名かおられるはずです。私の田舎に住んでおられる先生とは手紙や電話で今も時折お話していますが、その先生は私が小学1年生のときの担任の先生です。

小学校から高校までたくさんの個性ある先生との出会いがありました。小学校、中学校は先生との関わりが強く、波瀾に富んだ?学級のときもありました。でもヤンキー先生のおっしゃるように先生方はいつも本気で怒り、たたき(昔は多分私たちは先生のそのような行為にも親のそれに近いものを感じていたのでOKでした)、泣き(女の先生ですけど)、そして抱きしめてくれました。高校になると先生との関わりは大方淡々としたものでした。でも小中学校で触れ合いが濃かったので、高校でのその淡々さが私には却っていい具合でした。

そういえば学校のHPはあるかしら?と調べてみました。ありました、ありました♪
・七山村立七山小学校 http://www7.ocn.ne.jp/~nanayama/
・七山村立七山中学校 http://www3.saga-ed.jp/school/edq12751/index.html
・佐賀県立唐津東高等学校 http://www3.saga-ed.jp/school/edq10010/index.htm
ああ、懐かしい。HPの写真見ると小、中学校は人数減ってる〜。まあ私の頃は団塊の世代のちょっと下でしたからね・・(^^;

ところで私は小学校も中学校も高校も校歌が大好きで全部覚えています。高校の校歌は下村湖人の作詞です。『次郎物語』の下村湖人は、唐津中学の英語教師もされ、教頭、校長もされた下村虎六郎先生なのです。その校歌は「光、力、希望」を歌ったもので、未来に向かって希望をもって力強く漕ぎ出していこうという歌です。壮大な理想と清々しい精神を歌った歌で、詞と曲がぴったり合っていて、私は身びいきかもしれませんが日本一の校歌だと思っています(*^^*) 

懐かしくなっていろいろ検索していたら、私の時代の少し上の先輩であられる唐津の旅館『洋々閣』(http://www.yoyokaku.com/)の女将さんの大河内はるみさんがHPで素晴らしいエッセイを書いておられるのに出会いました。校歌のことも書いておられますが、“湖人の校歌はその後佐賀県や長崎県の小、中、高校に大きな影響を与えたようで「光、力、望」をキーワードにした校歌があちこちに出来たそうです”ということでした。そういえば七山中学校の校歌のそうでした!私は高校に入ったとき、(ああ、七中の校歌は東高の校歌を真似たのかなぁ)と思ったものでした。でも七山中学校の校歌も湖人(校歌)に影響を受けたということがはっきりして改めて嬉しく思います。

高校のHPで紹介されていた『下村湖人語録』はいいなぁと思っていましたが、洋々閣女将さんの大河内はるみさんの紹介エッセイが面白くて興味深いのでここにリンクさせていただきました。http://www.yoyokaku.com/sub7-36.htm
Date: 2004/04/24


ほんげんぎょう
私の住む団地はまわりを山に囲まれていて、竹を提供してくださる方もいるおかげで、毎年鬼火焚きがあっています。近所に住む人にとっては、灰が降ってきたりするので、鬼火焚きを喜ぶ人ばかりではないようですが、田舎育ちの私としては無くならないでほしい行事のひとつです。地域のふれあいのためにもこどもたちの思い出のためにも。

私の田舎では鬼火焚きのことを「ほんげんぎょう」と呼んで正月7日にあっていました。こどもが中心になってやる行事で、中学生が指揮をとって小学生もひきつれて竹を切りに行きリヤカーで運ぶのです。竹を積んだリヤカーにかわりばんこに何人か乗って、ズズズッとブレーキをきかせながら山道を駆け下りるのがおもしろくて楽しくて、私たちこどもは「ほんげんぎょう」本番よりリヤカーでの竹運びの方が好きだったかもしれません。

「ほんげんぎょう」で燃やす竹は孟宗竹です。燃えてしまってから、その火でもちを焼いて食べると、一年風邪をひかないといわれました。そして家の件数分切って集めた女竹(めだけ)で「鬼の面」を作ります。「鬼の面」というのは女竹の先の方を火であぶって四角に曲げたものをいい、「ほんげんぎょう」が終わったら、こどもたちがその「鬼の面」をもって家家に行き、もちと交換に1本置いていきます。「鬼の面」は家の玄関に立掛けられ災いからその家を守るというわけです。そして「鬼の面」と交換に集められたもちは、その日の夜のぜんざい会でこどもたちがわいわい言いながらいただいたのでした。
Date: 2004/01/12


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