〜「槙 健一 ビデオコンサート」〜
日 程 : 8月16日 (土) |
8/16 ひろみの東京ビデコンほうこくぅ〜♪ |
不忍通りふれあい館」にて、2回目のビデオコンサートを開催致しました。皆さんから、励ましのメールや掲示板への書き込みのメッセージをたくさん頂いて、私もゆかりちゃんも凄く元気づけられ、今後の励みになりました(^^)暖かいメッセージを頂きありがとうございました。 そして…当日は天気が悪かったのにも関わらず、みなさん会場に足を運んで頂きありがとうございました。皆さんから暖かい気持ちをた〜くさん頂いて、とても嬉しかったです。 今回のビデコンも「PEACE BEAT CLUB」を応援したくて開いたビデコンでしたので(^^ゞ皆さんのお気持ちを頂き11,000円PBCへ寄付させて頂きました。前回参加していただいた方も今回又、寄付して下さった方もいらっしゃいましたm(__)m 今回のビデコンは、遠くは茨城から来て下さった方、そして8歳のお子さんとお母様が参加して下さったり…と初めて参加して下さったっ方も多かったのですが、2月のビデコンや前回のビデコンに参加して下さった方が今回また参加して下さったりと、何度も足を運んで下さる方も多くいらっしゃり、「次回のビデコンはいつですか?」とか「ずっと続けて下さいね」とお声を掛けて頂いてとてもうれしかったです。 今回もゆかりちゃんに司会進行をお願いし(^^)たつろうさんから、TATSUMAKIに対する思いを語って頂きましたので、そちらを代読させて頂き…ビデオスタートです。 ビデオはコタパパさんにお借りしました。コタパパさん主催のビデコンでご覧になった方も多いと思います。 〜1部〜 ● 槙健一の写真 スライドショー ♪槙さんが、東京で活動していらした時のお写真です。 TBS系列ラジオ「たまごの…きみ」収録風景や、FM東京「タワーステーションキッズ」と雑誌FM STATIONとの連動企画で軽井沢に行って取材を受けた時の写真。ゴルフをしたり村田和美ちゃんとテニスを…。 ●第1回 ピースビートクラブ '96.10.29 ♪長崎のテレビで放送されたものです 「カリン」の初披露。槙さんのバンドはウッピー、たぁちゃん、熊ちゃん、かんぺいさん、たかさんです。槙さんと、バンドの皆さんの息もピッタリあっていてかっこいいライブですね。 インタビューの槙さんの長崎弁がいいなぁ〜(^-^)v ●CLUB24 横浜ライブ '94.9.1 デビュー前の貴重な映像です。 槙さんはお客さんに手拍子お願いしたのに…「あれ?わかんなくなちゃったもう一度…」な〜んて、デビュー前から槙さんのMCは楽しいですね(笑) ライブで歌っている歌詞とCDに入っているものは微妙に違いますよね(^^) ここで、「リボン」のCDを聞きながらちょっと休憩… ・ PBCの過去のチラシ、雑誌、新聞記事、今回のPBCの新聞広告 ・ PBCのポスター ・ 有川先生が書いて下さった槙さんのイラスト ・ コタパパさんのHPより健一さんの精霊船の作成中の写真 ・ 「僕は思う」の歌詞 などた〜くさん展示していましたので、そちらを見て頂いたり、リボンに平和のメッセージを書いて頂いたりしました。 〜2部〜 ●NIB出島ホール(長崎)ライブ '95.8.26 ♪スゴイ盛りあがりのライブですよね。槙さんも凄く楽しそうにライブをなさっていますね。 メンバー紹介も凄く楽しい!! ◎ 新生 TATSUMAKI の「僕は思う」 葉月の「リボン」 ♪TATSUMAKIのライブは先日のBe−7での模様です。 「僕は思う」のCDは発売されていますか?ってうれしいお問い合わせを頂きましたよ! 葉月さんの「リボン」はDOで初披露なさった時の映像です。 ビデオ見て、CD購入を決めた方もいたハズ!! PBCでは、みんなで「リボン」を大合唱できたら素敵ですね(^^) ◎PBC CM リボンがテレビで流れたらきっとドキッとするだろうなぁ〜義人さんの「平和賛成!」もかっこい〜い(^-^)v ビデコン終了後は・・・ ビデコン会場は1時〜5時の時間を借りており、ビデオ上映じたいは4時ちょっと過ぎに終了しました。その後、槙さんのプロモーションビデオを上映しながら、お時間のある方には「リボンに平和のメッセージ」を書いて頂いたり、千羽鶴を折って頂いたり、皆さんと交流できる時間をもてたら(^^)と思っていましたが・・・ |
東京ビデコンに寄せられた、たつろうさんの思いです。 |
TATSUMAKIへの思い 宮崎たつろう あれは、確か槙が一時体調が良くなった時だったと思いますが、BANDでやりたいね、という話しからだったろうと覚えています。 槙と私がBANDでやろうと言うTATSUMAKIまで、ありそうで無かったことでした。 たぶん私から声をかけたと覚えています、槙は快く承諾してくれました、 先にロゴが出来、番組が決まり、二人でなにかしら、ニヤニヤしている毎日でした(笑) そして、CDを出そうねと、楽曲を作り始めました。一番最初に出来た曲はレッドペッパーギターです。 しばらくして大山健司が参加して、ジェネレーションボックス、ツゥルーヤツゥル-等が続々と出来て、デモを次々に録音しました。 槙健一は、KAGAYAKI、僕は思う、スカジードライブ等のデモを持ってきて、色々検討しましたそして、外語短大のLIVEが決まりLIVEの為の練習を重ねました、今思うとリハの最中、槙はあまり声が出せない状態だったと記憶しています、練習の時は、非常に小さい声だった、しかしLIVEは、ビデコンを見ても分かるように実にノビノビと歌い、本当に病気なんだろうかと、思ったぐらいでした、しかしTATSUMAKIのLIVEも二度だけ・・ オランダ村のカウントダウンで最後でした、もうLIVEが出来ない状態でした、本当はもっといっぱいLIVEをしたかったです。 しかし槙は、TATSUMAKIに沢山の曲を書き続け、DEMO録音も苦しいながら続けました。それが今残っているDEMO曲です。 槙が居なくなって、スタジオに残っているDEMO曲を整理している時、あまりの多さに驚きました。涙が次々と出てきて止まりませんでした、東京で活躍している時も沢山の曲を書き、自分の体が徐々に悪くなっているのにどれをとっても、泣き言を言っている曲が無いのです・・ 自分がこんな状態だったら、これらの曲風は、とても書けたもんじゃありません改めて、槙の真の強さ、音楽に対する情熱には、頭が下がると思いました。 槙健一の楽曲をどういった形で、残し伝いえてくか?このことは私の中では、大きな問題でしたでも、誰かがやらないと・・ いつの日か、皆の記憶の中に埋もれていくのは、間違いないでしょう。 槙が歌っているTATSUMAKIの時に今ひとつ本気になれなかった私の後悔と懺悔の意味も含め新生TATSUMAKIのボーカルに友博を抜擢しました。それは・・非常にあらゆる意味で難しい選択でした。 槙健一と友博の表現力の差、いくら兄弟でもボーカルとなるとはっきり言って雲泥の差があります。 ただ顔が少し似てる、声が少し似ているぐらいじゃ最初のLIVE二、三回は懐かしむという意味ではいいかもしれないが、それ以上のLIVE、ましてはレコーディングなんかとんでもない!と考えていました。 しかし何度かLIVEするうちに友博の目の奥に、なにかしら槙健一が私の所へ始めてきた時の瞳の輝きを感じました・・ 。よしやってみよう! 友博に私の全部を教え込もう!そう決断し猛特訓が始まりました・・ 短い期間でしたが友博はもちろんメンバーまでついてこれました。 新生TATSUMAKIは、まだまだ大した歌、演奏にはなっていませんが、永く続けたいBANDです。 いつの日か、皆さんに認めてもらえる日を信じて突っ走ります! ビデコンにも入ってますが、槙が外語祭のLIVEの時、私の紹介にこんな話をしています。 「歳と音楽力は、この人には追いつきません、まだまだ私を認めてくれません・・」 この一説を聞くたびに私は胸を痛めます・・・槙にこう言いたいです。 「今は、槙を追いかける番だね、いつか槙を追い越すよ、ライバルは槙健一さ!」 |