TATSUMAKIへの思い     宮崎たつろう

あれは、確か槙が一時体調が良くなった時だったと思いますが、BANDでやりたいね、という話しからだったろうと覚えています。
槙と私がBANDでやろうと言うTATSUMAKIまで、ありそうで無かったことでした。
たぶん私から声をかけたと覚えています、槙は快く承諾してくれました、
先にロゴが出来、番組が決まり、二人でなにかしら、ニヤニヤしている毎日でした(笑)
そして、CDを出そうねと、楽曲を作り始めました。一番最初に出来た曲はレッドペッパーギターです。
しばらくして大山健司が参加して、ジェネレーションボックス、ツゥルーヤツゥル-等が続々と出来て、デモを次々に録音しました。
槙健一は、KAGAYAKI、僕は思う、スカジードライブ等のデモを持ってきて、色々検討しましたそして、外語短大のLIVEが決まりLIVEの為の練習を重ねました、今思うとリハの最中、槙はあまり声が出せない状態だったと記憶しています、練習の時は、非常に小さい声だった、しかしLIVEは、ビデコンを見ても分かるように実にノビノビと歌い、本当に病気なんだろうかと、思ったぐらいでした、しかしTATSUMAKIのLIVEも二度だけ・・
オランダ村のカウントダウンで最後でした、もうLIVEが出来ない状態でした、本当はもっといっぱいLIVEをしたかったです。
しかし槙は、TATSUMAKIに沢山の曲を書き続け、DEMO録音も苦しいながら続けました。それが今残っているDEMO曲です。

槙が居なくなって、スタジオに残っているDEMO曲を整理している時、あまりの多さに驚きました。涙が次々と出てきて止まりませんでした、東京で活躍している時も沢山の曲を書き、自分の体が徐々に悪くなっているのにどれをとっても、泣き言を言っている曲が無いのです・・
自分がこんな状態だったら、これらの曲風は、とても書けたもんじゃありません改めて、槙の真の強さ、音楽に対する情熱には、頭が下がると思いました。

槙健一の楽曲をどういった形で、残し伝いえてくか?このことは私の中では、大きな問題でしたでも、誰かがやらないと・・ いつの日か、皆の記憶の中に埋もれていくのは、間違いないでしょう。 槙が歌っているTATSUMAKIの時に今ひとつ本気になれなかった私の後悔と懺悔の意味も含め新生TATSUMAKIのボーカルに友博を抜擢しました。それは・・非常にあらゆる意味で難しい選択でした。

槙健一と友博の表現力の差、いくら兄弟でもボーカルとなるとはっきり言って雲泥の差があります。 ただ顔が少し似てる、声が少し似ているぐらいじゃ最初のLIVE二、三回は懐かしむという意味ではいいかもしれないが、それ以上のLIVE、ましてはレコーディングなんかとんでもない!と考えていました。 しかし何度かLIVEするうちに友博の目の奥に、なにかしら槙健一が私の所へ始めてきた時の瞳の輝きを感じました・・ 。よしやってみよう!
友博に私の全部を教え込もう!そう決断し猛特訓が始まりました・・ 短い期間でしたが友博はもちろんメンバーまでついてこれました。
新生TATSUMAKIは、まだまだ大した歌、演奏にはなっていませんが、永く続けたいBANDです。
いつの日か、皆さんに認めてもらえる日を信じて突っ走ります!

ビデコンにも入ってますが、槙が外語祭のLIVEの時、私の紹介にこんな話をしています。

「歳と音楽力は、この人には追いつきません、まだまだ私を認めてくれません・・」
この一説を聞くたびに私は胸を痛めます・・・槙にこう言いたいです。

「今は、槙を追いかける番だね、いつか槙を追い越すよ、ライバルは槙健一さ!」